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国の命令に背いてまで多くのユダヤ人の命を救い日本のシンドラーと呼ばれた外交官の話。

2017/02/21 UPDATE
 
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「私は、ビザを発行しようと思う。

彼らを見捨てるわけにはいかない。

人として、人間として大事なことがある。

本省の命令にそむくんだ。

外務省を辞めることになるかもしれない。

分かってくれるね。 」

幸子は、うなずきながら言った。

「きっとそうなさると思っていました。

私が信じた人ですから。」と。

千畝が、領事館の外に出て「あなた達すべてにビザを発行する」と告げた時

しばらくの沈黙の後、喜びの叫び声が上がった。

天に向かって手を広げ感謝の祈りをささげる人々

子どもをだき上げてよろこびを抑えられない母親など

「これで助かる」という思いが一気にはじけていた。

それからの1ヶ月間、千畝は朝から晩まで1日300人を目標に、ビザを書きつづけた。

1人1人に会い、氏名・ 国籍・住所・年齢、最終目的の国などを聞き、日付を入れ、サインをして、日本領事館の印を押す。

途中で万年筆も折れても、ペンにインクをつけて書き続けた。

そのような時、東京の外務省から

「至急リトアニアの領事館を閉鎖してベルリン(ドイツ)の大使館に移れ」という新しい指令が届いた。

「ビザを書き終わるまで領事館を閉鎖せず、このまま続けよう。」

千畝は、翌日も翌々日も朝から晩まで書き続けた。

指が疲れ、腕も疲れ、体はくたくた、睡眠不足で頭がもうろうとしてきた。

それでもなお書き続けた。

8月28日に領事館を閉鎖し、市内のホテルに移った。

ユダヤ人がやってきたので、ホテルの中でもビザを発行した。

いよいよ9月1日の早朝、退去期限が過ぎ、ベルリン行きの国際列車に乗り込もうとした。

ここにもビザを求めて何人かの人たちが来ていた。

千畝は、窓から身をのり出し、 発車ぎりぎりまでビザを書き続けた。

ついに、列車がベルリンに向けて動き出した。

「許して下さい。私にはもう書けません。

皆さんのご無事を祈っています。」

千畝は、列車の窓から身をのりだし、涙ながらに人々に言った。

「ミスタースギハラ、私達はあなたのことを決して忘れません。

必ず生きてもう一度お会いしましょう。」

列車と並んで泣きながら走ってきた人々も

千畝たちの姿が見えなくなるまでいつまでも叫びつづけていた。

千畝が発行したビザは、2139通であると言われている。

そして、そのビザを持ったユダヤ人たちは、身動きが出来ないほど詰め込まれた列車で

数週間をかけてロシアを通り日本に到着した。

敦賀や神戸で数多くの親切な日本人に助けられ、無事にアメリカやイスラエルなどの安全な国に行くことができた。

1947年、戦争が終わって日本へ帰ってきた千畝は、外務省から辞職の勧告を受けた。

「やはり命令にそむいてビザを出したことが問題にされているのか」とも思ったが

黙って外務省を去り、実業家としての第2の人生を歩み始めた。

そして、リトアニアでのことをいっさい人に話すことなく年月が過ぎていった。

その千畝にイスラエル大使館から電話があったのは、1968年8月のことであった。

あの時の5人の代表の1人、ニシュリという参事官が在日イスラエル大使館に勤めていた。

ユダヤ人たちは28年間も千畝を探し、ようやく彼を見つけたのであった。

ニシュリは、千畝に会うと、ぼろぼろになった1枚のビザを見せた。

「ミスター・スギハラ、あなたが私を覚えていなくても

私は1日もあなたを忘れたことがありません。」

2人は、手をかたく取り合って涙を流し再会を喜んだ。

1986年、千畝は86歳でこの世を去った。

しかし、その前年の1985年、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人賞」を千畝に贈り、その偉大な業績を称えた。

出典元:涙が止まらない

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日本人として誇りに思います。

人として、目の前にある命を救う。

国の命令に背いて、自分がどうなろうとも…

人として何が重要かを考えさせられました。
 



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