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「一緒に連れて行こう」 東日本大震災で亡くなった仲間の想いを胸に贈る声援。

2017/02/21 UPDATE
 
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20年前のセンバツに釜石南(現・釜石)として出場した野球部OB会長の小国晃也さん。

試合開始と同時にアルプス席であるユニホームを高々と掲げました。

「KAMAISHI MINAMI」と校名が入った白い上着は、2011年の東日本大震災で、32歳の若さで亡くなった宮田豊さんの遺品です。

出典元:mainichi.jp



「後輩たちが戦うぞ」


と亡き友に語りかけたそうです。

甲子園に初出場した1996年春、小国さんは三塁手として試合に出場しましたが、1回戦で惜敗しました。

チームのムードメーカーだった宮田さんは、スタンドで声を張り上げたそうです。

夢のような舞台に、みんなで興奮したそうです。

宮田さんはその後、岩手県釜石市で運送会社を経営。

5年前の震災で津波に流されました。

遺体で見つかったと知った小国さんだが「死んだとは思えない」と、今も受け入れられないでいるそうです。

野球部OBらは、お盆の頃に宮田さんらを追悼する試合を開いてきました。

仲間で飲むときは、宮田さんのお酒も注文してテーブルの真ん中に置くそうです。

「みんなに愛されていたな」と宮田さんをしのび「あのときは惜しかった」と甲子園の思い出を語るそうです。

釜石の21世紀枠での出場が決まり「一緒に連れて行こう」と宮田さんの実家からユニホームを借りてきました。

試合は仲間10人でスタンドに。

粘り強く戦う後輩たちに声援を送りました。

結果はみごと勝利。

出典元:ameblo.jp


小国さんは

「後輩思いだった宮田も喜んでいると思う。連れて来てくれてありがとう」


と、甲子園初勝利に感謝しました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

被災地の高校の活躍はその地域だけでなく日本全体に元気を与えてくれますね。

清々しい彼らのプレイはきっと宮田さんにも届いたと思います。

地元に帰って一緒に飲む素晴らしい思い出が付け加えられましたね。

次の試合での彼らの活躍を応援したいと思います。



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