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「沖縄戦を風化させぬ」94歳男性が今秋、語り部となり経験を語る

2017/02/21 UPDATE
 
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15日の終戦記念日が近づき、71年前の沖縄戦を生き延びた木本勇さんは「生と死の境目に何度立ったかわからない。戦争を風化させてはいけない」と思いを強めています。

木本さんは壮絶な地上戦が繰り広げられた摩文仁(まぶに)で重傷を負いながら、幸運にも命を取り留めました。

犠牲になった人たちの姿は今も脳裏に焼き付いています。

今秋、県平和祈念館(東近江市)で初めてその体験を語ります。

犠牲者の姿や記憶 今も鮮明なまま



太平洋戦争末期の1944年。

滋賀県職員だった木本さんは22歳で2度目の赤紙を受け取りました。

配属先はその後の沖縄戦で最前線を担うことになる「石部隊」。

博多港から朝鮮半島を経由し中国で部隊に合流、同年8月に沖縄へ上陸しました。

1カ月以上かかった道中は一度も洗濯できず、体中にしらみが湧いたそうです。

沖縄では道路造りに従事しましたが、県職員としての経験を買われ、途中から沖縄守備軍(第32軍)の司令部に出向しました。

各部隊への指示が書かれた書類をガリ版でつくるなど事務作業を担いました。

米軍が上陸を開始した45年4月、首里城にあった軍司令部にも空と陸から砲弾の雨が注ぎました。

食料を壕(ごう)の中へ移そうと、弾幕の中を米袋を担いで死にものぐるいで駆けた記憶もあります。

上陸地点を守っていた当初の配属部隊は全滅し、「出向していなかったら私も死んでいた」。

戦況はさらに悪化し、軍司令部は最南端の摩文仁まで撤退。

たどり着いた兵士はガマと呼ばれた岩穴に身をひそめたが、隣の人が誰かも分からない混乱状態だったそうです。

そこでは、わずかな判断が生死を分けたといいます。




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